また、治承四年水無月のころ、にはかに都遷り侍りき。いと思ひの外なりし事なり。
治承4(1180)年5月30日、平清盛の口から福原への遷都が発表されました。
予定日はたった3日後の6月3日。
それも1日早められて、6月2日に遷幸が開始されます。
安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇は、平清盛らとともに福原へと出発しました。
まさに、いと思いの外なりし事。
もし、自分が勤めている会社から突然、「3日後に本社を移転する」と発表されたらどう思います?
「いや無理でしょ」って思いますよね。
そんな社員の心配をよそに、社長や重役たちが2日後には新本社へと移っていくわけです。
ヤバいですよね。
それを国単位でやろうとした平清盛。
福原への遷都は失敗に終わり、半年も経たずに京都へと戻ってきました。
古京はすでに荒れて、新都はいまだならず。
鴨長明は新都建設中の福原に足を運び、実際に目にした光景を『方丈記』に克明に書き残しました。
「今の世のありさまはどうか」と、はっきりと政治批判も交えています。
平清盛の暴挙ともいえる福原遷都。
『方丈記』の原文と現代語訳を考察します。
方丈記「福原遷都」の原文と現代語訳
また、治承四年水無月の頃
原文
また、治承四年水無月の頃、にはかに都遷り侍りき。いと思ひのほかなりし事なり。
大方、この京のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳を経たり。
ことなる故なくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、安からず、憂へあへる、実にことわりにもすぎたり。
- みやこうつり【都遷り】:遷都。
- ことなるゆゑ【殊なる故・異なる故】:特別な理由。
- げに【実に】:まったく。そのとおり。ほんとうに。
- ことわりなり【理なり・断りなり】:もっともだ。
現代語訳
また、治承4年(1180年)6月のころ、突然遷都が行われました。まったく思いもよらない出来事であった。
おおよそ、この平安京のはじまりについて私が聞いていることは、嵯峨天皇の御代に、この領域が都として落ち着いた後、すでに400年余りが経過している。
特別な理由もなく、そう簡単に都が新しくなる事なんてあるはずがないので、この遷都を、世の人々が不安に思い、心配し合うのは、まったくもって当然すぎることであった。
されど、とかく言ふかひなくて
原文
されど、とかく言ふかひなくて、帝よりはじめ奉りて、大臣、公卿、みなことごとく移ろひ給ひぬ。
世に仕ふるほどの人、誰か一人、ふるさとに残り居らむ。
官、位に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりとも疾く移ろはむとはげみ、時を失ひ、世に余されて、期する所なき者は、憂へながらとまり居り。
軒を争ひし人の住まひ、日を経つつ荒れゆく。
家はこぼたれて淀河に浮かび、地は目の前に畠となる。
人の心、みな改まりて、ただ馬、鞍をのみ重くす。
牛、車を用する人なし。
西南海の領所を願ひて、東北の庄園を好まず。
- とかく:あれやこれやと。
- かひなし【甲斐無し・効無し】:仕方がない。どうしようもない。
- おもひをかく【思ひを懸く】:執着する。
- かげ【陰・蔭】:庇護。おかげ。恩顧。
- とく【疾く】:早く。急いで。早々に。
- あます【余す】:余計者にする。取り残す。
- ごす【期す】:結果を期待する。待ち望む。
- さいなんかい【西南海】:西海道(九州)と南海道(四国・淡路・紀伊)。平氏の息がかかった地域。
- とうぼく【東北】:平安京の東側(東海・北陸・東北)。平氏の勢力外。
現代語訳
しかしながら、あれこれ言っても仕方がなく、天皇をはじめとして、大臣も、公卿も、みな残らず新都へお移りになられた。
朝廷に勤めるほどの人は、誰が一人で旧都に残っていようか。
官職や位階の昇進に執着し、主君の恩顧を期待しているような人は、一日でも早く新都へ移ろうと懸命になり、出世の好機をつかめず、朝廷に見放され、将来に何も期待できることがない人は、悲嘆にくれながら旧都にとどまった。
豪華さを張り合っていた人の住まいは、日が経つにつれて荒れてゆく。
家は解体され、筏に組まれて淀川に浮かび、宅地はあっという間にさら地となる。
人の考え方はすっかり変わり、ただ馬や鞍ばかりを重んじる。
牛や牛車を使う人はいない。
西南海の領地を望み、東北の荘園は望まない。
当時の日本は、五畿七道という行政区画に分かれていました。
西南海は西海道(九州)と南海道(四国・淡路・紀伊)のことで、平氏の息がかかった地域でした。
対する東北は平安京の東側(東海・北陸・東北)のことで、平氏の勢力外。
役人たちは平氏の恩恵に少しでもあやかろうと、旧都に残された庶民など顧みることなく真っ先に新都へと移って行ったのでした。
その時、おのづから事のたよりありて
原文
その時、おのづから事のたよりありて、津の国の今の京に至れり。
所のありさまを見るに、その地、ほど狭くて、条里を割るに足らず。
北は山に沿ひて高く、南は海近くて下れり。
波の音、常にかまびすしく、潮風、ことにはげし。
内裏は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなか様変はりて、優なる方も侍り。
日々にこほち、川も狭に運びくだす家、いづくにつくれるにかあるらむ。
なほ空しき地は多く、つくれる屋は少なし。
- おのづから【自ら】:たまたま。偶然。
- ことのたより【事の頼り】:何かの用事のついで。
- つのくに【津の国】:摂津国の古名。現在の大阪府北部と兵庫県東部にあたる地域。
- かまびすし【喧し・囂し】:うるさい。やかましい。
現代語訳
その時、たまたま用事ができたついでに、摂津の国の新しい都に行ってみた。
その場所のようすを見たところ、土地の面積が狭く、区画を割り当てるには足りない。
北側は山沿いで高く、南側は海に近くて下り坂になっている。
波の音はいつも騒がしく、潮風はことのほか強い。
皇居は山の中にあるので、あの木の丸殿もこんな風情だったのかと、かえって様式が異なり、優れているところもありました。
来る日も来る日も解体され、川もいっぱいになるくらいに流送された家は、いったいどこに造ったのだろうか。
今もまだ空いている土地が多く、建てた家は少ない。
古京はすでに荒れて、新都はいまだならず
原文
古京はすでに荒れて、新都はいまだならず。
ありとしある人は、みな浮雲の思ひをなせり。
もとよりこの所に居る者は、地を失ひて憂ふ。
今移れる人は、土木のわづらひある事を歎く。
道のほとりを見れば、車に乗るべきは馬に乗り、衣冠、布衣なるべきは多く直垂を着たり。
都の手振り、たちまちに改まりて、ただひなびたる武士に異ならず。
- ありとしある【有りとし有る】:あるかぎりすべての。
- ふうん【浮雲】:落ち着かず不安なさま。
- いくわん【衣冠】:衣服と冠。公卿の略式の礼装。
- ほい【布衣】:布製の狩衣。貴族の普段着。
- ひたたれ【直垂】:武士の礼服。
- てぶり【手振り】:風俗。風習。ならわし。
- ひなぶ【鄙ぶ】:田舎じみる。田舎風になる。
現代語訳
旧都はすでに荒れ果て、新都はいまだに完成していない。
ありとあらゆる人が、みな不安な思いをいだいている。
もともとこの土地に住んでいる者は、土地を取られて嘆いている。
新しく移り住む人は、土木工事の手間がかかることにため息をついている。
道端を見ると、牛車に乗るべき人が馬に乗り、衣冠や布衣を着るべき人の多くが直垂を着ている。
都の風俗は一瞬にして変わってしまい、ただもう田舎くさい武士と違わない。
世の乱るる瑞相とか聞けるもしるく
原文
世の乱るる瑞相とか聞けるもしるく、日を経つつ、世の中浮き立ちて、人の心もをさまらず。
民の憂へ、つひに空しからざりければ、同じき年の冬、なほこの京に帰り給ひにき。
されど、こぼちわたせりし家どもは、いかになりにけるにか、ことごとくもとの様にしもつくらず。
- ずいさう【瑞相】:めでたいきざし。吉兆。前ぶれ。予兆。
- しるし【著し】:はっきりしている。予想通りだ。ぴったり符合する。
- ゆるす【許す・赦す・緩す】:(義務を)免除する。
- なずらふ【準ふ・准ふ・擬ふ】:準ずる。比べる。
現代語訳
世の中が乱れる前兆だとか聞いていたとおり、日を追うごとに世の中が騒々しくなり、人の気持ちも落ち着かない。
民衆の訴えは最後まで無意味ではなかったので、同じ年の冬、やはり天皇は平安京へお帰りになった。
しかしながら、軒並み解体してしまった家々は、いったいどうなってしまうのだろうか。
すべての家をもと通りに建て直すことは決してできない。
伝へ聞く、いにしへの賢き御世には
原文
伝へ聞く、いにしへの賢き御世には、あはれみをもつて国を治め給ふ。
すなわち、殿に茅葺きても、軒をだにととのへず。
煙の乏しきを見給ふ時は、限りある貢物をさへ許されき。
これ、民を恵み、世を助け給ふによりてなり。
今の世のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。
- つたへ【伝へ】:言い伝え。伝説。
- かぎり【限り】:決まり。規則。おきて。
- みつきもの【貢物】:租税。
- ゆるす【許す・赦す・緩す】:(義務を)免除する。
現代語訳
言い伝えによれば、いにしえの聖天子の御代では、民をいつくしむ心をもって国を治められたという。
すなわち、宮殿に茅の屋根をふいても、その屋根の先端すらそろえることはなく、かまどの煙が乏しいのをご覧になった時は、義務である租税さえも免除された。
これは、民に恩恵を与えることで、世を救済しようとなさったからである。
今の世のありさまはどうか、昔の世と比べれば見えてくるだろう。

なぜ桓武天皇ではなく嵯峨天皇の御時なのか
おほかた、この京のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳を経たり。
平安京が開かれたのは794年。
嵯峨天皇ではなく、桓武天皇の御代です。
それに794年から400年余りだと、治承4(1180)年を14年以上も超えてしまいます。
長明に歴史の知識がなかったとはとても思えませんので、意図的に「嵯峨の天皇の御時」としたのでしょう。
また、『方丈記』には出来事の具体的な年月日が記されているため、14年を誤差の範囲として「四百余歳」としたとも思えません。
桓武天皇も遷都に失敗している
実は桓武天皇も、一度遷都に失敗した人物。
平安京が開かれる10年前、784年に平城京から長岡京へと遷都させるも失敗に終わり、平安京へと至った経緯があります。
桓武天皇が遷都を望んだのも、平清盛と同じで支持基盤を固めるため。
しかし、平城京を離れたくない勢力による反発があり、平安京へ遷都してからも朝廷内は混乱していました。
桓武天皇は806年に亡くなり、次に即位したのは平城天皇でした。
平城天皇は桓武天皇の息子であり、第一皇子でしたが、父親との関係はあまり良くなかったようです。
わずか3年で天皇の地位を嵯峨天皇に譲ると、平城京への出戻りを画策。
しかし嵯峨天皇がこれをすぐに阻止し、ようやく平城京に戻りたい勢が制されたのでした(薬子の変、または平城太上天皇の変)。
嵯峨天皇の御代に落ち着いた平安京
その後は文字通り、平安の都となった平安京。
「嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳を経たり」というのは、鴨長明が『方丈記』を執筆する1212年を終点に、嵯峨天皇の御代(809~823年)に都が落ち着いてから400年余りということでしょう。
長岡京への遷都から数えると20年以上、桓武天皇の御代はとても平和ではありませんでした。
もしかすると長明は、桓武天皇のことをあまり良く思っていなかったのかもしれません。
自分の権力を強固にするために、たくさんの一般庶民を巻き添えにしたのですから。
木の丸殿とは

長明は「たまたま用事ができたついで」に福原の様子を見に行きました。
本心は行きたくて仕方なかったんでしょうが、わざわざ「ついでに行っただけだし」と付け加えるところが陰キャらしくて好きです(笑)。
木の丸殿とは、長明の時代から500年以上前、西暦661年に斉明天皇と中大兄皇子(後の天智天皇)が突貫工事で建てたといわれる仮の宮殿のことです。
当時、朝鮮半島の百済と友好関係を結んでいた日本(倭国)は、660年に新羅と唐の連合軍によって滅ぼされた百済を救済するために軍隊を派遣することにしました。
斉明天皇と中大兄皇子はまず九州(筑紫国)へと向かい、朝鮮半島への出兵の拠点として仮の宮殿を建設します。
木材を加工する時間などなく、丸太のまま急いで組み上げられました。
長明は福原に新しく造られた皇居を、その木の丸殿のようだと評しています。
「なかなか様変はりて、優なるかたも侍り」とは、相当な皮肉でしょう。
長明が現在のMCバトルに出たら、かなり強いと思います(笑)


