発心集「恵心僧都、遁世の事」原文・語釈・現代語訳
恵心僧都、年たかくわりなき母を
原文
恵心僧都、年たかくわりなき母を持ちたまひけり。こころざしは深かりけれども、いとこともかなはねば、思ふばかりにて、孝養することもなくて過ぎたまひにけるほどに、しかるべき所に仏事しける導師に請ぜられて、布施など多く取りたまひたれば、いとうれしくて、すなはち、母のもとへ相ひ具して、わたりたまへり。
語釈
- 恵心僧都:天台宗の僧、源信。天慶5年(942年)生まれ。『往生要集』など多数の著作を著した。
- わりなし:どうしようもない。生活もままならない。
- かなふ:思いどおりになる。
- 孝養:親孝行。
- 相ひ具す:合わせて持っていく。
現代語訳
恵心僧都には、年老いて生活もままならない母君がおられた。母への思いは深かったが、まったく思うように動ける身ではなかったので、心に思うばかりで、親孝行することもなく、日々過ごされておりましたところ、しかるべき立派な所で仏事を行った導師に招かれて、布施などを多く受け取られたので、たいそう嬉しく思い、すぐに母のもとへと持って行き、お渡しになった。
この母、世のわたらひ絶え絶えしき
原文
この母、世のわたらひ絶え絶えしきさまなり。「いかに悦ばれん」と思ふほどに、これをうち見て、うち後ろ向きて、さめざめと泣かる。いと心得ず、「君、うれしさのあまりか」と思ふ間に、とばかりありて、母の言ふやう、
語釈
- わたらひ:暮らし向き。生計。
- うち見る:ちらっと見る。
- さめざめと:しきりに涙を流し、泣くようす。
- とばかり:ほんのちょっとの間。しばらくの間。
現代語訳
この母は、この世での暮らしも絶えてしまいそうなありさまであった。「どんなに喜ぶだろうか」と思っていると、これをちらっと見て、そっと後ろを向いてしくしくと泣いている。涙の理由がわからず、「母君、嬉しさのあまりだろうか」と思っていると、少しの間をおいて、母が言うには、
法師子を持ちては、我、後世を
原文
「法師子を持ちては、我、後世を助けらるべきこととこそ、年ごろは頼もしくて過ぎしか。まのあたり、かかる地獄の業を見るべきことかは。夢にも思はざりき」
と、言ひもやらず泣きにけり。これを聞きて、僧都発心して遁世せられけり。ありがたかりける母の心なり。
語釈
- 法師子:法師になった子供。
- 後世:死後生まれ変わる世。来世。あの世。
- 年ごろ:長年。ここ数年もの間。
- まのあたり:目の前。
現代語訳
「法師になった子を持てば、私の後世を助けてもらえるだろうと、長年頼もしく思って過ごしてきた。目の前で、このような地獄の業を見ることになるとは、夢にも思わなかった」
と、言い終わりもせず泣いていた。これを聞いて、恵心僧都は発心して遁世された。ありがたかった母の心である。
発心集「恵心僧都、遁世の事」原文全文
恵心僧都、年たかくわりなき母を持ちたまひけり。こころざしは深かりけれども、いとこともかなはねば、思ふばかりにて、孝養することもなくて過ぎたまひにけるほどに、しかるべき所に仏事しける導師に請ぜられて、布施など多く取りたまひたれば、いとうれしくて、すなはち、母のもとへ相ひ具して、わたりたまへり。
この母、世のわたらひ絶え絶えしきさまなり。「いかに悦ばれん」と思ふほどに、これをうち見て、うち後ろ向きて、さめざめと泣かる。いと心得ず、「君、うれしさのあまりか」と思ふ間に、とばかりありて、母の言ふやう、
「法師子を持ちては、我、後世を助けらるべきこととこそ、年ごろは頼もしくて過ぎしか。まのあたり、かかる地獄の業を見るべきことかは。夢にも思はざりき」
と、言ひもやらず泣きにけり。これを聞きて、僧都発心して遁世せられけり。ありがたかりける母の心なり。
発心集「恵心僧都、遁世の事」現代語訳全文
恵心僧都には、年老いて生活もままならない母君がおられた。母への思いは深かったが、まったく思うように動ける身ではなかったので、心に思うばかりで、親孝行することもなく、日々過ごされておりましたところ、しかるべき立派な所で仏事を行った導師に招かれて、布施などを多く受け取られたので、たいそう嬉しく思い、すぐに母のもとへと持って行き、お渡しになった。
この母は、この世での暮らしも絶えてしまいそうなありさまであった。「どんなに喜ぶだろうか」と思っていると、これをちらっと見て、そっと後ろを向いてしくしくと泣いている。涙の理由がわからず、「母君、嬉しさのあまりだろうか」と思っていると、少しの間をおいて、母が言うには、
「法師になった子を持てば、私の後世を助けてもらえるだろうと、長年頼もしく思って過ごしてきた。目の前で、このような地獄の業を見ることになるとは、夢にも思わなかった」
と、言い終わりもせず泣いていた。これを聞いて、恵心僧都は発心して遁世された。ありがたかった母の心である。

