おせち料理の祝い肴三種の一つとして、関東でも関西でも全国的に食べられる数の子。
たくさんの数の卵が集まっていることから、子孫繁栄を願って食されることはなんとなく想像できるかと思います。
じゃあ独身の方や子供を望んでいない方は、どういう気持ちで食べたらいいのか、となるかもしれませんが、数の子に込められた意味は子孫繁栄だけではありません。
この記事ではおせち料理に数の子が入れられる理由と、歴史的な由来について解説します。
数の子は何の卵?
そもそも数の子が何の卵なのか、知らない方も意外と多いのではないでしょうか。
数の子は「ニシン(鰊)」の卵です。

ニシンは体長30 – 35cmほどの回遊魚で、春先の2月頃から産卵のために北海道沿岸へと押し寄せてきたことから、「春告魚(はるつげうお)」という別名でも呼ばれます。
お正月はまだ産卵期ではなく、数の子の旬ではありませんが、春に水揚げされたものを天日干しや塩漬けに加工することで、翌年のおせち料理にも食べられる保存食となります。
かつては日本海沿岸で大漁だったニシンですが、昭和28(1953)年頃から漁獲量が急激に減少。
現在はほとんどが輸入品で、国産の数の子は大変希少なものとなっています。
また、もともとは天日干しした干し数の子が主流でしたが、冷蔵技術の発達と、干し数の子を水で戻す手間がかかることから、現代では塩漬けの方が一般的です。
ただ、明治から昭和にかけての芸術家であり、食通として知られていた北大路魯山人によると、干し数の子を水で戻したものが美味しいのだとか。
数の子の語源

ニシンは見た目がイワシに似ていることから、「カドイワシ」という呼び名もあります。
頭や腹部が角ばっているから「カドイワシ」という説がありますが、うーん、どうでしょうか。
ユクカモ少しも角ばっているようには見えないかも⋯⋯。
その他にはアイヌ語で「カド」と呼ばれていた説、門口(かどぐち)で手づかみで獲っていたことに由来する説、などあるようです。
どの説が本当なのかはわかりませんが、「カズノコ」という名称は「カドの子」に由来するといわれています。
「カドノコ」が「カズノコ」になまったというわけです。
元禄10(1697)年に刊行された『本朝食鑑』にも、數子(カズノコ)が「加登乃古・加豆乃古(カドノコ)」とも呼ばれていた、と記されています。
もう一つの説は、単純に卵の数が多いことから「数の子(カズノコ)」と呼ばれるようになった、という説です。
『本朝食鑑』よりも古い室町時代の書物に「かずの子」とあることから、案外この説が有力なのかもしれません。
数の子がおせち料理の定番となるまでの歴史


数の子は遅くとも室町時代には食されていたようで、天皇家の用度係であった山科家が綴った『山科家礼記』の寛正4(1463)年の記録に、数の子を購入したことが記されています。
天皇家のお使いで数の子を購入しているわけですから、この時すでに縁起物であったのかもしれません。
また、室町幕府第8代将軍「足利義政」の政所を務めた蜷川親元が残した『親元日記』の、寛正6(1465)年正月の条に、以下の記述があります。
鱈の膓を不来々々と云て正月用ゆ
鱈の腸=鱈の白子だと推定される一方で、「不来々々」が「カズノコ」の類語であるとして、お正月に数の子が食べられていたとする説もあります。
もう少し古い書物『撮壌集』(1454年)にも「かずの子」という記載があり、「来々」と称されていることから、鱈の白子と数の子の両方が正月料理として定着していたのかもしれません。
庶民の間で正月に数の子が食べられるようになったのは、江戸幕府第8代将軍「徳川吉宗」の時代だといわれています。
倹約を推奨していた吉宗は、当時安価で流通していた数の子を、ゴマメ(田作り)・黒豆との「三つ肴」セットで正月に食べるよう奨励したそうです。
数の子・田作り・黒豆は現代でも、おせち料理の祝い肴三種の定番となっています。
おせち料理の数の子の意味


数の子は名前の通りたくさんの卵が集まっていることから、子孫繁栄を祈願する縁起物とされています。
また、ニシンに「二親」という漢字を当てて、両親の健康長寿を願う、夫婦が子宝に恵まれることを祈願する、という意味も込められます。
その他にも黄色く輝く色合いから、金運の上昇を願う場合もあるようです。
現代においては子供を望まない方も増えており、「子孫繁栄を祈願されても⋯⋯」って方も正直にいると思います。
そのような場合は両親のことを思ったり、世の中の子供たちの平和と安全を願ったりしてみてはいかがでしょうか。










