11月15日は「かまぼこの日」。
昭和58(1983)年7月6日に、全国蒲鉾水産加工業協同組合連合会(現・日本かまぼこ協会)によって制定されました。
なぜ11月15日が「かまぼこの日」なのか、その由来と蒲鉾の歴史について解説します。
かまぼこの日(11月15日)の由来

かまぼこの日の由来となったのは、平安時代後期に作成された『類聚雑要抄』という古文書です。
『類聚雑要抄』は寝殿造の設計図、儀式の装飾品や道具、饗宴の献立などが詳細に書かれており、当時の貴族の生活を知る上での大変貴重な資料として扱われています。
執筆者ははっきりしていませんが、摂関家(摂政・関白の家格)の家司(家事を司る職員)であった藤原親隆が、久安2(1146)年頃に作成したといわれています。
かまぼこの記述は、『類聚雑要抄』の永久3(1115)年7月21日の記録に登場します。
時の関白であった藤原忠実が東三条殿へ引っ越した際に、その祝宴の膳で「蒲鉾」が供されたと記録されているのです。

出典:国書データベース
これが歴史における「蒲鉾」という言葉の初出であることから、永久3(1115)年の西暦年を取って、11月15日が「かまぼこの日」と制定されました。
かまぼこ(蒲鉾)の歴史

かまぼこ発祥の地の伝説
蒲鉾という言葉、文字の初出が平安時代であることから、それ以前にはすでに蒲鉾という料理が存在していたといえます。
蒲鉾という名称でなくとも、周りを海に囲まれた日本では、魚のすり身を練りものにするアイデアが古くからあったようです。
もっとも古い言い伝えとしては、神功皇后が蒲鉾を初めて作ったという伝説があります。
西暦201年、神功皇后が朝鮮半島の新羅、百済、高句麗を征服したという「三韓征伐」の帰途に、武器の鉾に魚のすり身を塗りつけたものを焼いて食べた、という神話です。
その舞台と伝えられている、現在の兵庫県神戸市中央区にある生田の森には、「かまぼこ発祥の地」の記念碑が立てられています。
しかし清水亘の著書『かまぼこの歴史』によると、それらしい記録がまったく見つからず、つくり話が伝えられたものであろう、とのこと。
私も、「大事な武器で、しかも人を斬ったかもしれない刃に、生臭い魚のすり身を塗りつけるかな?」と半信半疑ですが、そのような食べ物は古代からあってもおかしくないと思います。
蒲鉾という名称の由来
かまぼこといえば、現在では板付きが主流ですが、もともとは竹の棒に魚のすり身を塗りつけて焼いたものを蒲鉾といいました。
つまり、今でいう竹輪が「蒲鉾」だったのです。
神功皇后が作って食べたとされるものも、まさにその竹輪状のかまぼこです。
鉾を使ったことから「蒲鉾」の語源となったという説もありますが、それでは「蒲」が抜けてしまいます。
では「蒲」とは何かというと、「蒲(ガマ)」という植物の名前です。

画像を見ての通り、蒲の穂は竹輪にそっくりですよね。
この蒲の穂に似ていて、さらにこの穂先が鉾に見えることから、「蒲鉾」と名付けられたとする説が有力です。
竹輪蒲鉾と板かまぼこ

現在ポピュラーな板付きかまぼこは、室町時代にはあったようです。
小笠原政清が伝授されたという食事作法書、『食物服用之巻』(1504年写)にこのような記述があります。
「かまぼこは右にてとりあげ、左へとりかえ、上ははし、中はゆび。下はいたともにきこしめす也。亀足かけとて、板の置やうに口伝あり」
白身魚が高級品であったため、庶民には手の届かなかった蒲鉾も、江戸時代になると徐々に流通が広がっていきます。
2種類の蒲鉾は「竹輪蒲鉾」「板蒲鉾」と呼び分けられていましたが、いつしか竹輪蒲鉾が竹輪に、板蒲鉾が蒲鉾と呼ばれるようになったそうです。
11月15日はかまぼこを食べよう♪

現在ではスーパーでも手頃に買えるかまぼこ。
中世では贅沢品であり、貴族の祝い膳に並ぶような高級料理でした。
豊臣秀吉の息子秀頼も大好物で、織田信長も本能寺で討たれる前日に食べたと伝えられています。
11月15日はぜひ、本来は高級品であるかまぼこを食卓に並べてみませんか?




